最上川の舟運と歴史
最上川舟運の基点も西廻り航路と同様に酒田湊です。酒田から山形の内陸部まで通じる最上川の舟運は新庄、大石田、河北町を通り、米沢までつながっています。しかし、米沢に近づくにつれ川幅も川の深さも減少するので舟運は難しくなります。
江戸時代に河村瑞賢(かわむらずいけん)によって西廻り航路が開かれると、酒田湊(さかたみなと)が全国の海運ルートの中に組み入れられ、内陸の河岸(かし)が河口の湊酒田を通じて全国と結びつくようになりました。
最上川の主な河岸には、船町(ふなまち:山形市)、本楯(もとたて:寒河江市)、寺津(てらづ:天童市)、大石田(おおいしだ:大石田町)、清水(しみず:大蔵村)、清川(きよかわ:庄内町)などがあります。
最上川と西廻り航路で物流が
中山町長崎から荒砥まで通じたのは、元禄7年(1694年)のことです。最上川舟運航路が新設されるまでは、現在の中山町長崎付近が最上川舟運の終点で、中山町中央公民館の西のあたりに船着き場があり、米沢方面へ船荷の陸送への積み換えが行われた要地でした。
西廻り航路を使って内陸からは年貢米、紅花、青苧などを運び、いっぽう、京都からの帰り荷には衣料、蚊帳、ひな人形など、上方文化を積み帰ってきました。大正時代の終わり頃までは、中山町中央公民館とJR左沢線の鉄橋との中間に「鍋掛松」という老松があって、そこが船頭たちの休み場で山形名物、芋煮が生れました。
酒田から船で運ばれてきた塩や干魚などの資材はここで降ろされ、人足たちに背負われて狐越街道を越え、遠く西置賜地方へと運ばれていきました。
最上川舟運の船の種類は
最上川舟運に使われた船は平田船と小鵜飼船です。 主に中、下流域で使われた大型の艜船(ひらたぶね)と、小型の小鵜飼船(こうかいぶね)の2種類が使われました。荷物を積んで最上川を上り下りする船にはどちらも舵は無く、櫂や帆で進み、急流を上る時には人力で網を引きました。
最上川舟運は、戦国時代に清水氏が酒田と清水(大蔵村)の間を開発したことで始まりました。その後、山形城主の最上義光が舟運の開発を進め、元禄年間には上流から下流まで全域にわたり最上川の掘削や拡張を進め発展します。
江戸時代までの交通や運輸は、河川や海上の利用が中心でしたが、最上川の舟運は全国的に見ても非常に盛んで、民間主導で行われたところに大きな特徴があります。
最上川では、輸送協定や管理運営など川の差配を商人が自主運営する形をとり、舟も町船とよばれる商人の舟が主流で、民間主導の舟運といえます。南部藩、伊達藩の統制により舟運が行われた北上川(きたかみがわ:岩手・宮城県)とは対照的です。
西廻り航路と紅花流通
最上紅花は最上川中流域の村山地方で産出される特産の紅花のことです。村山地方は土地が極めて肥沃です。この紅花産業も最上川の舟運と西廻り航路によって発展します。村山盆地の特性として朝霧や朝露が起きやすく紅花の栽培に非常に適した土地でした。このため最上紅花は最高品質の紅花として非常に珍重されました。
幕末の「諸国産物番付」においては東の関脇として最上紅花の名があげられています。生産量も非常に多く各地に「紅花大尽」が現れるほどに最上紅花は近域の農業・経済に多大な影響を与えました。
明治に入るまで最上地方の紅花生産高は大きく、その産量から「最上千駄」とも称されるほどの繁栄を見せます。お米以上に勢力を持ち始める紅花商人の登場です。
最上川舟運の歴史と景色
特産の紅花や米の交易による発展を意図し、慶長6年(1601年)山形藩主となった最上義光は最上川の難所といわれる川幅の狭い場所や浅い岩場の開削や河岸といわれる船着き場の設置を行い最上川舟運の整備を図りました。
最上川本流に活躍する250俵積み4人乗りのひらた舟。小鵜飼船は支流や船着き場間の近距離輸送に使われ積載量はひらた舟の1/5程の50俵程度とされます。
最上川最上流部の米沢藩に小鵜飼船が現れたのは元禄年間。長さ13~15m、幅2mで前方に帆をかけ風を利用する舳先が流線形のためスピードもあり川幅の狭い上流や支流では重宝しました。しかし風のない時は人力で川岸から綱で引いたり櫓や竿を使い進みます。人海戦術さながら大変な重労働でした。
酒田からの最上川を上る、上り船には塩、砂糖、海産物、木綿、茶等。下り船には米、紅花、青苧、大豆などを運びました。上りは2週間程、下りは4₋5日か方ということです。
関西の文化が残る最上川流域
なぜ西の文化が山形県、庄内地方にみられるのかと、よく言われるのが、最上川舟運が発達していた時代の北前船の影響です。江戸の寛文年間、西回り航路が整備されて、最上川流域は京都、大阪と直結し、物資とともに文化の交流がさかんに行われていた証です。
そのため、県内各地に西の文化が残っている。たとえば、酒田まつりや新庄まつりの山車。原型は祇園まつりの「山」が起源とされる。丸餅も、最上川舟運の基点である庄内地方に北前船がもたらした関西文化ではないかと言われます。
最上川舟運と芋煮会
最上川舟運に関わる人たち、舟運の人足は時に、京都から運ばれた棒鱈と地元の里芋を材料に河岸の松の枝に鍋を掛けて煮て食べました。力仕事を強いられる気の荒い人たちが多かったようです。
船着き場のすぐ近くには、里芋の名産地である小塩という集落があるので、前々から予約しておいた里芋を買い求め、船に積んできた棒鱈などの干魚と一緒に煮て、飲み食いしながら待ち時間を過ごしました。
その時、そばにあった松の枝に鍋をつるして芋煮をしたので、やがてこの松が「鍋掛松」と呼ばれるようになりました。そんな退屈しのぎのひとつとして発生したのが芋煮会のはじまりと言われています。まさに舟運の生んだ特有の食文化です。
出典:日本海事広報協会ほか
参考文献:山形県の歴史、最上川舟運と山形文化、羽州山形歴史風土記、北前船の近代史、藩物語 庄内藩、藩物語 山形藩、庄内藩幕末秘話、ほか