北前船の働きと由来とは
江戸時代には日本海や北海道の港から江戸や大坂(大阪)へ、米や魚などが船で運ばれていました。船は瀬戸内海をとおって大坂、江戸へ向かう西廻り航路又は、津軽海峡をとおって江戸へ向かう東廻り航路を利用しました。
西廻り航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。なぜ北前船と呼ぶのかについては、北廻り船がなまったという説、北前とは日本海の意味で日本海を走る船だからという説など、諸説あるようです。
酒田湊から西廻りと東回り
18世紀のはじめごろになると、西廻り航路が東廻り航路にくらべてさかんに利用されるようになりました。というのは東廻り航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れにさからって走らなければならないため、当時の船では航海は困難が多かったからです。
利用が多くなれば安価になるのが常です。西廻り航路のほうが荷物を安く運ぶことができたからでした。北前船としてつかわれた船は、当時、貨物船として広くつかわれていた「弁才船」と呼ばれる船でした。
西廻り航路がさかんになると、この航路を走るのに適するようにいろいろな改良が加えられていき、明治時代になっても、しばらく活躍していました。
西廻り航路が安価が有利に
江戸時代、酒田をはじめとする日本海の港や北海道の港から江戸や大阪に、米や魚、特産物などが船で運ばれていました。船は津軽海峡を通り江戸へ向かう東廻り航路と瀬戸内海を通って大阪、江戸へ向かう西廻りの航路があり、西廻りの航路を走る船を北前船と呼ぶようになりました。
東廻りの航路では太平洋側を北へ向かう黒潮の流れに逆らって進む必要があるため、西廻りの航路の方が荷物を安く運べるため盛んに利用され、酒田は北前船の寄港地として「日本の中心」海運の中心と言われるほど繁栄した歴史が随所に残っています。
海を渡り移動する商社
北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。
また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、ヨットのような優れた帆走性能のある船です。
何故、瑞賢が抜擢されたか
伊勢国(現在の三重県)で生まれ、江戸に出て材木商となって財を成した瑞賢 は、なぜこの大事業に抜擢され、どのように整備を進めたのでしょう。
江戸時代の日本の海運に変革をもたらし、酒田湊を大きな繁栄へと導いた西廻り航路開設から350年を迎えた今年、瑞賢の動向や庄内藩の対応を記録した資料などからひもとき、瑞賢の功績を紹介します。
日和山公園にある河村瑞賢像 西廻り航路による出羽国御城米の江戸廻米を請け負います。この商人請負制では、請負商人 が船を雇い、トラブルが起きれば全責任を負ったため、請負料は高額になりました。
廻米制度という新しいルール
利益を 優先した無理な航海が原因で海難事故も起きていました。 そこで白羽の矢が立ったのが、前年の寛文11年(1671)に東廻り航路による陸奥国御 城米の廻米を成功させた瑞賢でした。
瑞賢は、経費削減のため船は幕府が直接雇うこととし航海の安全を確保するために綿密な計画を立てます。5月に酒田を出帆した船は7月に無事 江戸に到着し、ここから安定した廻米制度が始まりました。
酒田から西と東に航路をつくる。主要な航路としては、東北地方の酒田から本州の東側を廻って江戸までつなぐ 東廻り航路となります 。
川村瑞賢への強い信頼が
河村瑞賢は伊勢国度会郡東宮村(現在の三重県南伊勢町)で生まれ、江戸に出て商人として 成功をおさめた人物です。 明暦3年(1657)の江戸の大火の際、復興のために大量の材木が必要になることを見越 した瑞賢は、自分の家が焼ける危険も顧みずに木曽に向かい、材木を買い占めて財を得ました。
これを基に建築請負業も始めると、幕府や諸大名から注文を受けて富を築き、御用商人 として多くの公共事業に携わるまでになります。 瑞賢は、用意周到に仕事を進めた一方で、周囲の人をあっと言わせるようなアイデアマン だったといいます。
商人の鏡 他の成功を喜ぶ
人の成功を自分のことのように喜ぶような人だったともいわれています。 廻船業を営んでいたわけでもなく、奥羽を相手に商売をしていたという記録も見当たらない瑞賢が、なぜ御城米廻米のための航路整備という大事業を幕府から命じられたのか。
はっ きりした理由は伝わっていませんが、幕府の強い信頼を得ていたのは確かです。また才覚に 恵まれただけでなく、こうした姿勢で仕事に臨んだ瑞賢だからこそ、この仕事を成しえたの ではないでしょうか。
弁才船の能力について
弁才船は17世紀前半におもに瀬戸内海で活躍していた船の形です。当時は300石積前後の中型船でした。当初、漕帆兼用船でしたが、このころから帆走専用船となり、乗組員の数も少なくなり、改良がかさねられました。
そして手ごろでつかいやすい船として、流通経済の発達とともに1,000石積、1,500石積と大型化され、全国的に普及していきました。よくいわれる千石船とは、大型の弁才船をさす呼びかたとして広まりました。
幕末に洋式船が入ってくると、その技術を取り入れて、明治時代に入っても経済性の高い商船として活躍しました。また、大坂(大阪)より木綿、油などの日用雑貨を江戸にはこんだ菱垣廻船から分離して、おもに酒荷をはこぶようになった樽廻船、そして日本海側で活躍した北前船(北前船型弁才船)も弁才船の代表です。
出典:日本海事広報協会、酒田市史など
参考文献:山形県の歴史、最上川舟運と山形文化、羽州山形歴史風土記、北前船の近代史、藩物語 庄内藩、藩物語 山形藩、庄内藩幕末秘話、ほか