伝統野菜だだちゃ豆をつなぐ生産者
田舎では家号で呼ばれることが多い。鶴岡市のだだちゃ豆を生産する與惣兵衛(よそべい)は江戸時代から続く由緒正しい庄内平野の農家です。
日本有数のお米処、庄内平野。だだちゃ豆の産地で有名な鶴岡市の郊外に白山(しらやま)でも篤農家と呼ばれる真摯な農業生産者も多い歴史のある地域です。
鶴岡市白山に農家の後継ぎとして育った康貴くんですが、周辺の若者と同様に二十歳を過ぎると具体的な目標がある訳でもないのに漠然とただ農家の暮らしを嫌い都会でサラリーマン生活を始める。
確たる理由がある訳でも、目標がある訳でもなかった。ただ東京へのあこがれ、どうしても田舎より都会がかっこよかったからということになる。
ただ、生まれたところでそのまま漫然と暮らすのは嫌だった。親戚や知人の距離の近さというか、田舎ではどこに行っても誰か知っている人がいて、介入してくる。息苦しい狭い空間がたまらなかった。
親父とは、家を出る時まで目を合わせることもなく口を利かなかった。母親には申し訳なく思っていたが、親父は何も言わず送り出してくれた。それがまして悔しい気持ちにさせるのだった。
東京はそんなに寛容ではなかった
就職して、仕事にはすぐに慣れた。黙々と働いていた。ただ誰にも負けたくないという気持ちが生まれ自分をリードしていた。自分は東北人だとつくづく感じていたのは確かだ。
東京に来て、さみしいと感じたこともなかったし隠れて泣くこともなかった。仕事が忙しいということが一つのやすらぎを与えていたから。
都会の景色や季節の変化に気付いたのは3年もした休日のある日のことだった。春の日の中で電車から外を見ていたとき、ふとふるさとの景色が頭の中をよぎった。子供の頃、家族で春作業をしている横で泥だらけになっている自分がいた。
楽しかった。近所の同級生と川で魚獲りをしていたこと。鮮明に思い出して、目に涙が浮かんでいた。そして、いこうとしていた駅はとっくに過ぎていることに気付いた。
単調な毎日は楽しくはないが仕事が忙しかったので、淡々と毎日は過ぎて5年、6年目と同じような毎日の連続。仕事が暇になると無性に故郷を思い出すことも多くなった。
何時しか時が過ぎてサラリーマン生活を送る中で結婚、嫁さんをもらい、子どもが生まれ、マイホームを持つ夢を持ち始め、その先に幸せな家庭のビジョンを描いたりして何の疑問もなく暮らしていました。
しかし、家を出たときには故郷に未練はないといい切った自分の心に、いつしかサラリーマン生活の将来に疑問も感じはじめ、「これでいいのか」と自問自答が始まる。時には眠れない悶々とした堂々巡りの日々も。続いていました。
そんなある日、「山形さ、帰ってきてくれねーが」と母の日からの電話が・・・。
脱サラして家族で帰郷することに
何故か、康貴にずっとわだかまって雲の中にいたような何かが、その時から雲がとれていくようにこころに見た青空が顔を出しました。
子供のころから見慣れてきた山々の景色、泥んこになって遊んだ思い出が一気に目の前に見えてきました。もう今までの自分は何だっただろうというほど、帰りたくなっている自分の本性が大きくなって膨らんでいる信じられない自分がいたのです。
田舎に帰って家族で暮らしたいと心底思っている素直になった自分がいました。目にいっぱいの涙がとめどなく流れおちて止まりません。
幸いに嫁さんも旦那の様子から以前から察していたようで、子どもたちのためにもと田舎に帰って暮らす決断をしてくれました。
気にかかっていた父親との再会の気まずさも、つかの間のこと。一緒に暮らし始めると父の打ち解けた気遣いも感じられ、かえってもうし訳ないような気持ちさえ感じたのです。
田舎暮らしに満足を感じはじめる
3カ月もすると、家族とすっかりうちとけて田舎暮らしに慣れて子供達と家族に囲まれ泥だらけの農業に楽しさも感じはじめる自分がいました。何より家族といつも一緒にいられることが嬉しかったのです。
今まで抱えてきた、もやもやとした色んな不安がなくなったのとからだを動かす肉体的疲労でよく眠れます。何故かしら安心感に包まれ、意味もなく将来に大きな期待も持てるようないなり、子どもたちに伝えていきたい大事なコトも感じています。
何より嬉しかったのは、嫁さんが田舎暮らしに馴染んで子どものためにも自分のためにもと誰より田舎暮らしを喜んでいる姿を見ると申し訳なさとありがたさを感じる自分がいることでした。
帰って来て3年たち、よし、ここで生涯、頑張ろうという気持ちが日に日に、強く湧きあがって来るのを感じています。サラリーマン時代の自分には無かった何かが生まれました。
金銭感覚も変わりました。お金は大切だけど、無くても出来ていく自信のような安心感があるのです。
子供のころからの親しい同級生や友達もいない田舎の暮らしは意外と楽しめている。自分には田舎が合っていると自覚も生まれてきます。
だだちゃ豆の季節になると夜明け前3時に起きて収穫作業しますが、充実感がわいてきます。夜もごはんを食べるともう眠いだけで気がつくと畑に行く生活にも慣れました。
仕事が終わって、子どもたちと風呂に入ると幸せ感が最高潮になって「最高、最高!」とつぶやいている自分がいます。
何でこんなことになってしまったんだろうと、時々思い出しては不思議な気持ちになるのでした。
だだちゃ豆の惣兵衛は長年受け継がれてきた家号
だだちゃ豆の本場白山で江戸時代からだだちゃ豆を作り続けてきた農家です。だだちゃ豆 は江戸時代から種を各農家が自主管理して改良を重ね脈々と種をつなぐ在来の枝豆の品種です。枝豆の王様「枝豆王」と呼ばれます。
その家号である與惣兵衛のだだちゃ豆は先祖代々門外不出で継承されて来た「種」が命という貴重な固有の種になります。
他の種と混ざり、交配されない様に毎年毎年、厳選して種を繋いで来た他にはない、江戸時代から進化を重ね繋いできた「與惣兵衛だけのだだちゃ豆」です
栽培方法も主流になっている、化学合成した肥料での管理ではなく堆肥を中心に使い、毎日畑に足を運び、成長の様子を観察し、天候を予測しながらこの「この状態、このタイミングでの管理方法」をその時の状況を確認しながら行っています。
なので、毎年栽培の仕方が違います。そんな手間のかかる栽培方法ですが、天候が悪い時も、良い時も「安定した、良い品質の作物」を作るための心構えのような情熱も芽生えています。
だだちゃ豆は子どもを育てるように作物を育てる
康貴の言葉は田舎の庄内弁に戻りました。嫁さんも、かなり訛ってきました。もちろん子供達は庄内弁に変わりました。
作物にも興味が深まってきました。「子どもを育てるように」、しいては、医者が「体調を見てあげるように」日々「目配り」「気配り」をしながら行っています。
作物をつくることは子供を育てることと同義だとつくづく感じながら作物と向かい合ってこれが「丹精込める」ってことかと少しずつ感じられる日々です。
農作業をする間に70歳を超えた親父とは孫を通して関係性も回復し、孫の力は絶大で思いやりを感じながら元より仲のよい親子になった。連れてきた二人の孫が何よりの共通話題となって、笑い声の絶えない家に変わりました。
ある時、つらい肉体労働について愚痴っぽくなった時「働く」は「傍を楽にする」から働くんだと親父の話しに妙にリスペクトしている康貴くんでした。
仲が良すぎて、揉めることもあっても問題はすぐ吹きとばすだけの繋がりの家族となっているのです。
そして、ここ山形県の鶴岡市のだだちゃ豆の産地、白山っていうところに生まれた意味を考えながら仕事に精出している毎日です。
だだちゃ豆とは山形県鶴岡市の一地域、白山(しらやま)地区だけで許された名称で、枝豆王と呼ばれるにふさわしい美味しい食味と独特の風味が高い枝豆です。
茹でるとトウモロコシのような香ばしい風味が強く伝統の枝豆はあまい香りが広がり、やめられない独特のおいしさが特徴。
だだちゃ豆の種子は自家で選抜淘汰を繰り返し自家採種し、白山地区では門外不出の家伝の宝として扱っています。
長い期間に渡り生産者の情熱と地域がこぞって競い合って「だだちゃ豆」の栽培に努力してきた人気の在来種「だだちゃ豆」。
だだちゃ豆、白山だだちゃ豆は鶴岡市白山地区(大泉地区)に伝わる伝統野菜であり庄内地方で愛される夏の風物詩です。
https://www.ajfarm.com/fs/ajfarm/c/gr10