亀の尾 誕生の物語から
明治26年(1893年)は大凶作の年であった。この年の9月29日、東田川郡庄内町肝煎(旧立谷沢村地内)中村集落にある熊谷神社に参詣の折、近くの水田の水口(みなくち)に植えられていた「惣兵衛早生」という品種でした。
水の取り入れ口近くの水口に植える冷立稲の中に倒伏しないで、たわわに結実した稲穂三本が亀治の目にとまった。その三本の稲穂をもらい受け、抜き取って持ち帰ったとされます。亀治は、翌年からささやかな試験田で四年間にわたり比較栽培試験を続けたといいます。
苗の密度や水のかけ引きや肥料のやり方などの組み合わせをさまざまに工夫し、何度も失敗しながら研究を重ね、大事に三本の稲穂の種籾を殖やし、さらに、抜き穂を重ねて、これを一つの品種として選抜淘汰で固定させたのである。
冷害に強い亀の尾の魅力
明治30年の大冷害でも亀治の新品種の田圃だけが結実充分で黄金の稲穂の波を打ち、予想外の豊作となったことからその素晴らしさが実証されたのです。
待望の耐冷性品種の実証となりました。それまで東北の稲作は、毎年、冷害による深刻な被害に打撃を受けていたからです。特に東北内陸部や太平洋側の山間地域の被害は深刻だったようです。
冷害に強いとされる品種の魅力は膨大で待ち望まれた資質の品種といえます。その上、この新しい水稲品種は、在来品種と比べ倒伏しにくく、風害や虫害に強く、多収で食味も良いことがわかったといいます。
「亀の尾」と命名する
この水稲品種に友人が「亀ノ王」と命名するように勧めたとありますが、王では僭越だとして「亀ノ尾」と命名した。ここに新品種「亀ノ尾」が誕生しました。そして、各地からの「亀ノ尾」種の種籾を分けて欲しいという要請に、亀治は快く応え、分け与えたこともあり、年々歳々、徐々に全国的(台湾・朝鮮半島にも)に普及していきました。
人間味あふれる阿部亀治氏は「亀ノ尾」の良い形質の保護(原形質の維持)にも努めるためにも原形質の劣化した不純な「亀ノ尾」の種が出回るのを防ぎたいと考えたのでした。
亀の尾の普及はもちろんのこと農業者の今後の発展を考えてのことでした。亀治氏は「亀の尾」を私的なものとは捉えませんでした。広く普及していくことを願い共有の財産と捉えていたのです。
そして正しい原種の保存と共有の意味から、自ら、気まえよく他県にも種籾を分け与えたといいます。大正14年(1925年)には、合計面積約20万ヘクタール作付けけされました。ついに「愛国」・「神力」と共にわが国三大水稲品種の一つに数えられることになったのです。
亀の尾と生産現場の時代背景
亀の尾が生まれる前後の時期は、東北地方の稲作技術が一連の技術体系として大きく再編成されようとしていた過渡期であった。この一連の技術革新の牽引車となったのは、いわゆる乾田馬耕、つまり、土地改良と農作業の畜力化の時代です。
乾田馬耕導入が軸となって、肥料をたくさん使うようになり、田植えが正常植に改まり、水のかけ引きが合理化され、稲作技術全体の仕組みが変わって行く転換期のことです。そして、そのことは、必然的に稲の品種についても新しい技術の乾田馬耕に向いた新品種の出現を待望としていたのです。
亀治は、そうした時代の背景を敏感に受けとめていた。だから、稲の品種改良だけに熱中していたのではなかったようです。村の人達に先がけて乾田馬耕を取り入れて、技術革新にも努めて意識していました。
亀治の米作りと技術革新へ
そのころの水田には一年中水が張ってドロドロの田んぼだったのです。つまり酸素が十分供給されず、肥料の分解が進まないことは亀治には明白なことでした。そして多くの人たちは根拠もなく「田の水を抜くと罰があたる」ともいわれていたころのお話しです。
それにしても人力で田んぼの仕事をすべて賄った時代です。とても重労働であり非効率な米作りの時代です。何とか人々のために新しい方法を考えて少しでも増産できる技術体系を作りたいと思っていました。
亀治は周囲の声には耳をかさずに、我流に田圃に溝を掘って乾田化しました。村の人たちは、田圃の表面が乾き、ヒビ割れができたのを見て、「亀が田んぼに亀の甲をつくったぞ」とは笑ってはやしたてたというお話も残っています。
乾田馬耕 時代の要請に
亀治は、遠くまで出かけて馬耕技術など耕地整理についても教えを請い習いました。それまで、鍬を使って人の手での田んぼの耕起作業に馬を使った馬耕に切りかえたのです。
このように、亀治の品種改良の試みは、乾田馬耕を取り入れるのと平行して進められていたのである。つまり、亀治が育成した稲の新品種は乾田馬耕向きの新品種だったわけです。
だからこそ「亀ノ尾」は、あれほど驚異的な普及ぶりをみせ、明治の末から大正時代にかけて、わが国の米作農業に品種のメント左京改革の面で大きく貢献できたものといえます。
昭和時代の新品種への期待
昭和期になり食糧増産が時代の要請となり、公設の農事試験場で水稲育種の研究が盛んになり、多肥多収の優れた新品種が次々と創選される時代を迎えます。
どちらかというと多肥に弱い「亀ノ尾」種は、飯米としての王座をこれらの新品種に奪われてしまい、主食用の飯米品種としては姿を消し、亀の尾を改良親とした新しい品種が育っていきます。
しかし、その優秀な血統は耐えることはなかったのです。現在の良質銘柄米の代表的な「コシヒカリ」「ササニシキ」「はえぬき」などは、「亀ノ尾」種のDNA(遺伝子)を有し、これらの良質米のルーツをたどると、その祖は「亀ノ尾」種であることが分かっています。
「つや姫」の開発は1998年(平成10年)に山形県でコシヒカリを上回る最高の食味味を目指して完成まで十年間の開発期間がかかりました。この「つや姫」も大本を辿ると美味しいお米の源流であるレジェンド「亀の尾」に行きつくのです。
▼庄内平野コンバインによる稲刈