さくらんぼ試作栽培と地の利
1875年に内務省勧業寮からは全国各県にさくらんぼ苗は配布されましたが、山形県以外の地域ではうまく育たず定着しませんでした。山形県でさくらんぼの栽培が始まったのは、明治8年のことです。全国で育成が試みられる中、実らせることに成功したのは山形県とその周辺と北海道でした。
原因の多くは気象条件、特に台風などで倒れる風害。霜による遅霜の害。収穫期に実が腐る雨の害。さくらんぼは梅雨期に収穫されるので梅雨期の雨が多い地域には無理があったことなどです。
山形県の気象条件や土壌条件等が非常に適していたとも言われています。梅雨期の降水量が少なく、山々に囲まれた山形の地形が好適だったので風害も少なく、雨の害も少ないことが幸いしました。
さくらんぼと缶詰加工
今のような雨除けハウスが無くて、佐藤錦も誕生する前の時代はさくらんぼを完熟させて収穫することはなかったようです。缶詰加工が主流だったので雨での実割れが出る前に収穫を終える体系でした。
当時の品種「黄玉(きだま)」「ナポレオン」でも、収穫できていたのは完熟する前に青いサクランボを収穫する早もぎでも、缶詰用には十分に足りていたからです。
現在の寒河江市の井上勘兵衛(1859年~1917年)という人は佐藤錦が登場する前、さくらんぼが山形で栽培が始まったころに日持ちしないさくらんぼの商品化を考えて、缶詰加工に乗り出します。
明治9年、北海道開拓使庁より県が苗木を導入するとき同行し、苗木を譲り受け自宅に植栽した。明治11年より山桜を台木として苗木づくりをはじめ仲間と共に普及を図りました。生産量もだんだん増えてきました。 しかし、地元だけでは、買う人が限られます。
生のままで県外など遠くに売りに行ったのでは、すぐに腐ります。 そこで、井上勘兵衛は、缶詰にすることに成功し、独自のラベルをはり遠く横浜まで売り出したのです。明治28年から自宅でさくらんぼの缶詰加工に着手し、その技術を完成させました。苦心の末の成功でした。
佐藤錦が登場するまでにも黎明期にサクランボの普及や発展に努力を重ねて、日本一さくらんぼ産地に育てた先人たちがいたのです。
佐藤錦の誕生と先人の努力
大正元年に佐藤栄助氏(1867~1950年)は、日持ちはよくないが味のいい「黄玉」と、酸味は多いが固くて日持ちのいい「ナポレオン」をかけ合わせてみる。佐藤錦の誕生が大きくかかわっていることは疑う余地がありません。
佐藤錦は今までにない生食用に適した特徴がありました。完熟の甘さは生食用にうってつけの美味しさがあったのです。今までの品種とは全く違っていました。現在の佐藤錦の品種全体、山形さくらんぼに占める割合は75%にもなります。圧倒的シェアを誇ります。
もう一つは豊かさを求め高度成長の国内事情が拍車をかけました。相まって宅配便の登場も見逃せません。日持ちの悪い完熟さくらんぼを翌日配達するシステムが佐藤錦には必要だったのです。
さくらんぼ雨除けハウス開発
雨除けハウスはさくらんぼ雨による被害を防ぐための施設です。収穫が近づくとさくらんぼの実は雨にとても弱く、雨に当たると果皮に亀裂が生じ割れて商品価値がなくなります。特に佐藤錦は生食用の品種で完熟して収穫する品種だから雨除けハウスがないと栽培できないといえます。
雨による実割れを防止するために昭和46年頃から現在のようなパイプを組み上げた雨除けハウスが開発され、昭和の後半から広く普及し始めました。佐藤錦の普及と品質向上に大きな貢献をしています。雨除けハウス設備が出来たことで生食用の佐藤錦は完熟まで樹上におくことができるようになったのです。
佐藤錦の場合だと、色付きの始まる5月下旬から6月上旬に、生産者は雨除けハウスのビニールかける作業を一斉に行っています。ビニールを撤収するのは収穫の終わる7月中旬の梅雨が終わる頃までさくらんぼの熟成を見ながら収穫できます。
▼山形さくらんぼの主な品種のシェア
全国の果樹地域の共通点から
さくらんぼの栽培に適した内陸型盆地は、山形県の村山盆地、山梨県の甲府盆地、長野県の長野盆地などがあげられます。あとは北海道の日本海寄りの積雪のある地域。このような地域は落葉果樹には好適地のようです。いずれも梅雨期の降水量が少なく、風害の少ない。冬にしっかり雪が降り寒さにより果樹の休眠が十分とれる要素が備わっている地域です。
この他にも山形県は品種開発や技術革新も盛んで「佐藤錦」に代表される品種開発や雨除けハウス栽培などの技術開発など、先人達のたゆまぬ努力により日本一のさくらんぼ産地を築いてきました。
その後さくらんぼ栽培はリンゴ、洋なし、桃などの果物とともに山形県内で普及し、官民一体となっての努力も実り、現在、山形県のさくらんぼ生産量は全国生産量の75%を占めるまでの「さくらんぼ王国」となっています。
▼さくらんぼの剪定から収穫まで