さくらんぼ苗 明治維新に入る
日本にさくらんぼが入ってきたのは、明治元年(1868)です。ドイツ人のガルトネルが北海道にあった6本のさくらんぼを植えました。さらに、その後、北海道を開拓する人たちが、アメリカから25種類の苗木を輸入し、これを東京で育て、さくらんぼの苗木を全国に配りましたが、 東北や北海道を除いてはうまく実をならせることができませんでした。
いちばん早くに入ってきたのは、ヨーロッパからのセイヨウミザクラというもの日本には「さくらんぼ」という言葉もなかった頃です。この時の品種は日本の気候、風土に合わなかったのか上手くいきませんでした。
そこでアメリカからアメリカで品種改良された品種を輸入したのです。こちらは日本の気候風土に合ったのか、根付き定着しました。100年以上前に日本に来て、今でも山形県の産地に残るこの中に今も現役で活躍するナポレオンや高砂(たかさご)などの品種も入っていたようです。
明治維新と云うのは進取の気質に富んだ西洋からの資源を積極的に取り入れようという意気込みがここからも感じて取れます。
全国でサクランボ試験栽培が
山形県の他の地域ではほとんどが霜害・梅雨・台風被害のため失敗。被害が比較的少ない山形県だけが実績を上げることができたのですが、時代背景的には米、穀物などの基礎食料が優先。果物ではリンゴ、梨などの大衆消費が重要であり嗜好品的な果物には、重要性が無かった時代でした。
さくらんぼが山形には、明治8年(1875)に東京から、洋なし・りんご・ぶどうなどの苗木にまじって、3本のさくらんぼの苗木が入ってきました。 明治9年(1876)には、初代の山形県令三島通庸(みしまみちつね)が、北海道からりんご・ぶどう・さくらんぼの苗木をとり寄せといわれています。明治11年(1878)には、寒河江市に外来種の試験場をつくりサクランボも育てています。
山形県 寒河江市では、明治9年(1876)に本多成充、井上勘兵衛が、北海道からさくらんぼの苗木をとり寄せました。すぐに栽培に取り組みました。この人はサクランボの缶詰加工を開発して大いに普及させた人です。
失敗した理由は梅雨と台風
山形県ではサクランボ栽培が上手くいき、他の地域では失敗した原因として霜害、梅雨、台風被害ということが原因として挙げられています。具体的な内容を推察してみると下記のようなことにまとめられます。
▼霜害では、サクランボの蕾が枯れて着果しなくなります。→ 枯死するようなことはなく、栽培は継続できる
▼梅雨はちょうど収穫にかかりますのでせっかく着いたサクランボの実が雨に濡れて、実が割れて腐り食べられなくなります。(山形ではそのために雨除けハウスが開発された)→実が収穫できなければ栽培は困難。
▼台風の被害はサクランボの樹は根が浅いので強い風にはかなり弱く倒れやすい性質なのです。→決定的な被害。ある程度大きくなると強風で倒れやすくなる(サクランボの樹は風に弱い)
さくらんぼ山形の地の利
▼霜害:局地的な被害はあるが大規模なものは少ないさくらんぼ栽培には常に見られる被害
▼梅雨:山形さくらんぼの産地である村山盆地は周囲を高い山に囲まれた盆地で梅雨期の降水量は県内でも一番少ない
▼台風被害:同じく村山盆地は周囲を高い山に囲まれた盆地でなので台風でも強い風は吹かない。
このような違いから他の県で上手く行かなかった決定的な要因は梅雨と台風の被害のダメージが大きかったと想像されます。梅雨期の長雨と台風にはヨーロッパ生まれのサクランボは抵抗力がなかったのです。
山形の 地形 気象がピッタリ
ここで、山形のサクランボ産地は高い山に囲まれた盆地であることに大きな「地の利」があることがわかってきました。
忘れてはならないのは「さくらんぼの苗木を全国に配りましたが、 東北や北海道を除いてはうまく実をならせることができませんでした」という記述については、日本に入ってきたオウトウ(さくらんぼ)はヨーロッパ系のセイヨウミザクラということでした。
ヨーロッパ系のセイヨウミザクラは冬の降雪などの寒さを越さないと(休眠出来ないので)実が着かないということが考えられます。今の日本のさくらんぼの品種にもいえますが、一定の温度以下の寒い冬の期間(休眠)が必要で、寒い冬を越さないとしっかり着果出来るような花が咲かないので実が着かなくなるのです。
山々囲まれ盆地特有の気候が
さくらんぼに最適の気候と地形とは
1、梅雨期の降水量は全国的にかなり少ない。
2、盆地なので山々に囲まれ、台風の被害を受けづらい。
3、夏に猛暑になる。 夏が暑いと花芽が充実して次の年の着果は良くなる。
4、積雪が多い。 さくらんぼの樹は寒い冬を越す(休眠)事で実を結ぶ性質
以上のような4つ条件に合った山形県はさくらんぼの産地としていちばん適合していたから大きな産地に発展していくことになりました。
ナポレオン時代から佐藤錦へ
梅雨に収穫を迎えるサクランボは雨にぬれて実割れすることもしばしばあったとは思いますが、大雨が降る梅雨後半までには収穫を終えることが出来ていたと考えます。ですから、今のような雨除けハウスが無くても、当時の品種「黄玉(きだま)」「ナポレオン」だとそこそこ収穫できていたたようです。
もともと需要は今のように佐藤錦もなかったので生食ではなく缶詰加工用が主流の品種だったので、完熟する直前に収穫して梅雨末期の大雨が降り始める前に収穫するなど梅雨空に相談しながら収穫を終えることが出来たと思います。
しかし、お天気はままなりません。梅雨の雨は時として甚大な被害をサクランボに与えました。豊作になる年、豊作でも梅雨に遭って収穫できない年もありました。そのさまを表現して「サクランボはまるで博打のような果物」と揶揄されるのも当然といえます。
当時は、少々の雨の被害も想定して空梅雨を期待しながら収穫していたようです。今のさくらんぼ栽培と違い大雑把な栽培を余儀なくされていたといった方が正しい見方かと思います。
昭和60年代になり佐藤錦による生食の時代なると、加工用のナポレオン時代と違い、品質に対しての意識の高まりが加工用の時代とは全く変わりました。
もう雨による実割れは被害は許されません。雨除けハウスによって、サクランボの実を守ることが優先され、次々と雨除けハウスが増設されていくことになるのです。
さくらんぼ産地に何故なった
まとめ
山形県を表現するときに「山形は山がいっぱい」というように云われます。山がいっぱいの盆地であるからこそ、山々にまもられて、梅雨に降水量が少なく、特に台風の被害が少なく、夏暑くて、雪が多い この山形特有の気候こそがサクランボを産地に育てた大きな要因と考えられます。
くだものの産地に共通した気候は内陸型の温度格差が大きいこと。温度格差によって果物の糖度が高まり濃厚な食味になります。またサクランボ収穫に当たる梅雨期の雨が少ないことがあげられます。サクランボの場合は夏の暑さも次の年の花芽の成長に大きな影響があります。内陸の盆地型の村山盆地は遅霜の被害も強く受けなかったことも一因しています。
いずれにしても、日本に導入された「さくらんぼ」は山形特有の地形と気象とが「地の利」として相性良くなじんだこと。それが明治の開拓者たちが試験栽培までして、全国、広しといえども山形県にサクランボが定着を可能にした決め手になったと推測されます。
最後に、優秀なサクランボの品種に恵まれたことも忘れてはなりません。明治維新に輸入された「ナポレオン」、とても収穫量が多い豊産性のある加工用では多くのサクランボ農家の収入を増やしました。
そして、生食の時代になると同時に美味しさと品質の良さが特徴の「佐藤錦」です。全国的に山形サクランボの評価を高めることになる黄金時代を築いた功労者といえます。
▼さくらんぼの栽培園地