芥川賞小説 「月山」 森敦
62歳という高齢で芥川賞を受賞した森敦。彼の作品には、自身の人生がおおいに詰め込まれています。芥川賞受賞作の一文一文から魂を感じとれる作品「月山」は作家森敦の小説で1973年に雑誌「季刊芸術」に掲載。1974年に第70回芥川賞を受賞し、老新人作家のデビューが話題になりました。
月山物語 湯殿山注蓮寺
かつて森敦が、ひと冬を過ごした湯殿山注連寺は、凄みのある山寺だった。猛吹雪から本堂を守る雪囲いの木組みは夏の間も解かれず、数本の太い突っかえ棒が本堂の右側面を支え、倒壊を防いでいる。この堂内に数奇な運命をもつ鉄門海上人の即身仏が納められているという事実も、私の心を一層ぶきみにした。
私の訪れた六月上旬、庄内平野は梅雨の前の快晴が続き、境内はひっそりとして、霊域の森ではカッコウの声がこだました。山形県鶴岡市の駅前から出た定期バスは約一時間かけて山腹の大網バス停に着く。そこで私を降ろすと、バスは合掌造りに似た多層民家で知られる山奥の田麦俣集落へ登っていった。
バス停から約二キロの山道を行くと、注連寺の思いがけず広壮な屋根が見える。石段を登りつめたところで、今まで隠れていた月山(1984m)が現れた。重畳たる緑の山脈のかなたに月山は残雪を白銀に光らせていた。
死者の行くあの世の山!
小説『月山』は、素姓も定かならぬ放浪者の「私」が、ふらりと訪ねた注連寺で、寺男のじさまと二人きりで厳冬期を明け暮れする物語である。この地区は全戸が「渡部」姓を名乗る薄暗さ、ドブロクを密造して現金収入を得ている犯罪性、さらに行き倒れのやっこ(乞食)をいぶしてミイラに仕立ててしまうという噂のある排他性のある集落として設定されている。
よそ者の「私」は、自分にそそがれる意味不明の薄ら笑い、村人が振り返り「これがあれか……」といった視線をいぶかしく感じるのだった。
真言密教 即身仏
真言密教に特有の即身仏は、山形県庄内地方には六体あるが、その中の少なくとも一つは上人の遺体ではなくやっこの模造品であるという噂はたしかにあったという。しかし、注連寺の鉄門海ミイラがそれだ、というのは我慢ならないらしい。
文子の夫、渡部利正(61)は東京の森敦に抗議した。彼は農協組合長もやり、村議三期の実力者であった。これに対し、作者は長距離電話で延々と四十分にわたり回答してきたが、結論は次の数語に尽きた。「やっこでも往生すれば立派に仏になる、ということをいいたかった」渡部利正は納得した。
もう一言つけ加えるなら、鉄門海上人の手形が残されているが、その指紋とミイラの指紋は一致したという調査がある。注連寺のミイラは、決してやっこの模造品ではなかった。
まさに「黄泉の国」からの帰還
本文
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『 ……女はそれとなく、膝に置かれた黒いモンペ姿の男の手を払い、
「お前さま、和紙の蚊帳つくっているというんでろ。どげなもんだかや」
「どうって、まァ繭の中にいるようなものかな」
……と、言うのを受けて頷いたのは、首振りのばさまであります。
「だども、カイコは天の虫いうての。蛹を見ればおかしげなものだども、あれでやがて白い羽が生えるのは、繭の中で天の夢を見とるさけだと言う者もあるもんだけ」』
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ここに描かれる「女」は、いつか寺の裏山である独鈷ノ山で出会ったことがあり、冬になってから寺の庭で雪の下になっていたセロファン菊を掘り起こして本堂に活けてくれた心やさしい寡婦である。
村は冬ごもりに入っても、時折、注連寺で念仏講が行われる。この講へ参加できるのは、六十歳以上のばさま、六十歳以上で女房を失くしたじさま、そして後家、はすべて参加できる決まりになっていた。
欲も得もなくした男女が、それぞれ手料理をもって寺に集まり、ささやかな祭礼をひらく。彼らは、いわば現世に未練をなくした“亡者”たちなのだ。
小説では名も与えられていない“セロファン菊の女”は、妖しい魅力をたたえている。自分では「おらももう、この世の者でねえさけ」といいながらも、若さは“冥界”に納まりきれない生気をみせる,
このモデルについて、森敦は、「注連寺で会った二人の女性の合成です。あえて一人にしぼるなら、たしか大網小学校の先生をしていて、私に講演を頼みに来たことがある人です」
山里に遅い春が来た翌二十六年五月、主人公の「私」は、タクシーで庄内平野を探し回ってやっと注連寺にたどりついた友人に連れられ、十王峠を越えて七五三掛(しめかけ)を去る。山腹を迂回するバス道路が開通する前は、この峠越えが庄内平野へ下りる近道であった。
峠から振り仰ぐと、死者の行く月山は皎皎と牛の臥した姿を輝かせている。しかし、三十九歳になった森敦は十王峠を越えず、友人とともにバスで県道を下りた。
取材を終えた私は、一日二本きりの急行バスに乗り、田麦俣を越え、湯殿山を越えて反対側の山形盆地へ下りた。それは、やはりどこかしら“冥界”からのよみがえりを感ずる旅であった。
出典:サンデー毎日 昭和54年7月1日 より抜粋
出羽三山と月山 特有の死生観
つまり、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)をいただいて生まれ変わる、という類いまれな「霊山」として栄えてきた神秘のお山として知られています。
出羽三山の信仰世界を語る場合、まず挙げなければならないのは、今日なお「神仏習合」の色彩が色濃く遺されているということです。
古来より出羽三山は、自然崇拝、山岳信仰、など“敬神崇祖”を重視するお山であったが、平安時代初期の「神仏習合」の強い影響を受け、以後、明治初年の「神仏分離」政策の実施の時まで、仏教を中心としたお山の経営がなされてきました。
今日、出羽三山神社は「神道」を以て奉仕しているが、古くからの祭は道教や陰陽道そして密教を中心とする「修験道」を持って奉仕しているといえます。
注蓮寺のある七五三掛(しめかけ)へは鶴岡駅からバスと徒歩で50分
〒997-0531 山形県鶴岡市大網字中台92-1 Tel:0235-54-6536
http://www2.plala.or.jp/sansuirijuku/index.html
▼月山高原から雪の月山を望む