山形県の日本海沿岸は新潟県から、秋田県まで続きますがクラゲの展示で日本一の加茂水族館から秋田県境までは長い砂浜の海岸線が続きます。
300年かけた防砂林に
日本海からの強い北よりの季節風が育てた砂丘が庄内砂丘です。庄内砂丘は長さ35km、面積約55km2を誇り長さ日本一の砂丘として知られています。いちばん高い所は標高30mほどあります。
鳥取砂丘、吹上浜砂丘とともに日本三大砂丘のひとつとされています。しかし、庄内砂丘は鳥取砂丘のような砂の山といったイメージはありません。それは、冬の強い季節風から農地を守るため300年ほど前からクロマツが植林されて、庄内平野の稲作を守ってきた経緯があり、砂丘全体がクロマツの防風林、防砂林になっているからなのです。
砂丘特有の気象と地形は砂地ならではの熱しやすく、冷めやすいという温度格差がメロンの食味を引き上げる。砂の土壌は肥料分が少ないため「肥料が効きやすく、無くなり易い」というメロンの栽培に良くマッチしています。
その砂丘の特等を利用してさまざまの農産物が栽培され特に砂丘メロンは、庄内平野の夏を代表する特産品になりました。
本間光丘と庄内平野
本間家3代目当主に本間光丘という人がおります。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」といわれた日本一の大地主で、「徳は得なり」「積小為大」:小を積んで大を為す。の哲学のもと宝暦8年(1758年)から藩から許可を得て砂防林造成を行ったのです。
当時の領主、庄内藩には大土木工事を行う資金がなく、かわりに本間家が私財を投じて庄内平野を砂や風から田畑を守る大工事を行ったのです。工事は土嚢ではなく、砂嚢を砂地に置きます。それを積み重ねて、山にします。山になることで、砂の移動を止めるのです。この砂嚢をおいていく人夫ですが、基本、失業者です。冬の酒田は、北前船が動かないため、港の労働者は、何もすることが出来ません。
そんな、人たちのために仕事を作りました。砂嚢に必要な藁は、米所の庄内平野ですから、いくらでもあります。作るのは農民ですので、臨時収入になります。砂との戦いですから、1年きりと言うことは無く、安定収入になっていきます。
このような、小さな積み重ねか始まり、長い年月と多くの先人たちの努力によって三大砂丘「庄内砂丘」は生まれました。
メロン原産地はアフリカ大陸
メロンの原産地は、アフリカ大陸とする説が有力で、特にニジェール川流域(現在のギニア共和国付近)に範囲を絞っているものもあります。他には中近東、インド、中国などとされます。
南欧やエジプト方面に広まって改良されたものが今日のヨーロッパ系メロンであり、中国に伝わって発達したものが東洋系メロンのマクワウリだと言われています。
メロンの仲間の栽培は古くからあり、古代エジプト、シリア、古代ギリシャ、ローマ時代から知られています。中国でも、紀元前13世紀の『爾雅』に、すでに記録があるそうです。
イタリアでは11~13世紀、フランスやスペインでは15世紀、イギリスやアメリカでは16世紀から始められたと言われています。
日本ではマクワウリの栽培が
日本では、メロンの仲間であるマクワウリ栽培の歴史が古く、弥生時代の遺跡から、炭化した種子が多く発掘されています。ヨーロッパ系メロンは明治時代の中後期に日本に渡来しました。また、現在のような温室メロンが栽培され始めたのは、大正14年にイギリスから種子が運ばれてきた(アールス・フェボリット品種)のが始めです。
日本における、いわゆる「大衆メロン」の幕開けは、1962年に育成された「プリンスメロン」です。これはマクワウリにヨーロッパのイボメロン系メロンをかけ合わせたもので、マクワウリに倍する安定した甘みが人気を呼び、急速に普及しました。
庄内砂丘メロン栽培は大正7年
メロンが日本に入ったのは明治初期でアメリカから伝わったといいます。ただし定着したのは、その後ヨーロッパから導入した温室栽培メロンで、高級で手間のかかるアールスメロンでした。
しかし、露地ネットメロンは比較的栽培が容易で、良質な品種の登場により、品質の高さが人気を呼んでいる。
夏には南国に負けない強い日差しが照りつけ、東北の湘南ともいわれる山形県庄内浜。その松林に囲まれた砂丘地では、大正7年からメロンが植えられていました。
本格的なメロン栽培は昭和6年
本格的な普及は昭和6年以降の事で日本育児院七窪分院(現在の七窪思恩園)の院長、五十嵐喜広氏の指導で進められました。昭和6年に七窪メロン研究会を設立その後メロン栽培は普及されていきます。
彼は、昭和2年に渡米した際、カリフォルニアの砂丘で露地メロンを大規模に栽培しているのを目にします。そして、何とか郷里の庄内砂丘でもメロン栽培を実現したいと考え、帰国の際に何種類かのメロンの種子を持ち帰ったといわれます。
本格的な栽培は昭和初期からで、カリフォルニアの露地栽培を手本とした。しかし当時は技術が追いつかず、時代が戦時下に入ってしまい、メロンは「不要不急の作物」として栽培が中断されます。
一世風靡したプリンスメロン
戦後にメロン栽培を継承した人がいました。七窪メロン研究会の斉藤伝吉さんという篤農家が戦争中、メロン栽培の血筋を絶やさないように、隠れて保持していたのです。メロンの種は新しくないとうまく出来ませんから、戦時中のさなか毎年、種を採るためだけにメロンを植え続けていたということです。
戦後は、地元で育種した新しい品種「ライフ」を栽培。その後昭和37年にプリンスメロンが発表されると、さっそく庄内でも導入することになる。このプリンスメロンの味が全国で評判となり、昭和42年頃にプリンスメロンの栽培によって、砂丘地のメロンの産地としての地位を固めることになりました。砂丘という環境がプリンスメロンにはぴったりだったのです。
庄内砂丘メロンとして全国に
この後、昭和50年代になるとアールスメロンを親に育成された露地ネットメロンの新品種がどんどん登場してきます。53年頃から作付けされたアンデスメロンは、京浜市場で高い評価を得、以来、ずっと主流を占めることになったのです。長く愛されてきたプリンスメロンの時代も終わり、ネットのあるアンデスメロンに一気に変わっていきました。
また平成10年にデビューした、JA鶴岡の「鶴姫」と赤肉の「鶴姫レッド」も人気が定着。アンデスの甘くとろりとした肉質に対し、肉質がしっかりとして爽やかな甘さが特徴です。
日持ちがいいことから関西方面にも多く出荷されますが、関西では赤肉の人気が高いことから、青肉の「鶴姫」に比べ、「鶴姫レッド」の方が多く作られています。さらに赤肉では「夏のクインシー」も評価が高く増産されています。
庄内砂丘メロンの歴史 まとめ
昭和40年代後半から50年代前半のプリンスメロンのヒット。その後のアンデスメロンの躍進。庄内砂丘メロンは全国に知られるようになりました。
七窪メロン研究会の方々は過去をふり返り、こう感慨を深く語ってくれます。「以前は鳥取砂丘に視察に行ってました。今は、鳥取から庄内へ視察が来るようになりました。時代は変わるものですね」
長い間、不毛地帯と思われていた庄内砂丘。それを克服しようと江戸時代から挑戦してきた本間光丘に始まる植林に賭けた先人たち、一方メロン栽培に人生を賭けて、砂丘に夢を描き続けた先人たちの心意気は、今も脈々と受け継がれています。
そして、忘れてならないのは農業に不可欠の「水」、灌漑用の地下水が豊富であったことは天からの恵みとして決定的要因と考えられます。それも江戸期から続く、酒造会社がいくつも酒蔵を営むほどに水質の良い豊富な地下水脈が砂の地下から脈々と砂の乾いた大地を潤してくれます。
天地自然の理がこの不毛の地だった砂丘に命をあたえて、たくさんの自然の産物を生みだし続けてくれています。
参考文献:「砂丘よ健在なれ」(山形県園芸試験場砂丘分場)「特産庄内のメロン」(東北農政局山形統計情報事務所酒田出張所)など
▼メロンの美味しい切り方