庄内藩士 開墾の情熱と庄内柿
さて、今回は庄内藩士の開墾に始まる柿のお話です。時代はずっと遡り幕末から明治に代わる頃の庄内藩の顛末になります。当時、徳川譜代の庄内藩は賊軍と呼ばれ、江戸を落ち会津、米沢と共に戊申戦争を最後まで戦い恭順して終ります。藩主の謹慎、公地没収などの処分を受ける中、明治四年には廃藩置県となり、月山山麓の原野 松ヶ岡を開墾する一大事業が持ち上がります。
松ヶ岡開墾場は、明治維新直後、旧荘内藩家老菅実秀が、肝胆相照らした仲の明治 政府参議、西郷隆盛の勧めにより、養蚕による庄内の再建を目指して壮大な開墾事業に着手します。 明治五年、旧庄内藩士約三千名は刀を鍬に持ち替えて、広大な原生林100ヘクタールを開墾したのです。
昼夜を問わず働き、犠牲者が多数出るほど開墾は過酷を極めたが、58日という驚異的な期間で完成させました。その後、明治8年には310ヘクタールの桑園を新たに造成し、日本最大の蚕室を完成させました。
庄内柿 酒井調良が開発し普及
「徳義を本とする産業報国」「賊軍降伏の恥をそそぐ」「朝廷及び旧藩主への報恩」この三つを目的とし心を一つにした開墾奉仕作業でした。士族が生計のためでなく奉仕として開墾した例は全国にありません。
また庄内柿は松ヶ岡の開墾に当初から参加した酒井調良という人が、松ヶ岡経営の将来、武士の未来を考え、養蚕に続く作物として開発した作物なのです。当時は難しかった渋柿の渋を抜く方法を独自に開発して松ヶ岡に限らず広く庄内地方の農家のために技術を惜しまず普及に努め、販売を東京、北海道にまで広げる営業活動までもしたのです。
明治5年、25歳の調良は松ヶ岡開墾に参加します。これからの時代、養蚕・製糸業が新しく有望な産業になると考えていた調良は、開墾に汗を流し、屋敷内などに蚕のえさとなる桑を植えて養蚕に励みました。明治13年には私財を投じて製糸会社盛産社を興し、横浜から海外へ向けて生糸の輸出を始めました。
藩士の開拓者精神が今も残る
それから百四十年余が過ぎ、現在は時代の変遷を乗り越えて56戸の藩士の末裔が庄内藩士の魂を代々受け継いで「松ヶ岡農場」として運営に当たっています。こうして、庄内地方で農業の中核として地域をリードしてきた松ヶ岡農場は現在でも月山山麓に開拓者の精神を守り抜き220ヘクタールを耕作する庄内柿の一大産地としその歴史と精神を継承しています。
今度、松ヶ岡農場よりご縁をいただき販売活動に参画させていただくことになりこの歴史ある産品をご紹介させていただくことになりました。 この月山山麓の松ヶ岡で育った高品質の庄内柿の品種「平核無」に庄内藩士の開拓者の精神を称え、「さむらい柿」と命名して皆さまにご紹介させていただこうと思います。
庄内藩 酒井家は徳川の譜代
元和8年(1622年)酒井忠勝 (出羽国庄内藩主)が庄内に遷封され鶴岡に居城、江戸時代に、庄内藩酒井氏の城下町として盛え、加茂港は北前船の着く港町であり、明治以後も羽越本線開通まで新潟港へ向かう船が出ていた。また、出羽三山神社には東北地方で唯一、皇族(蜂子皇子)の墓が存在しています。
江戸時代の初頭に庄内入りをした第3代の忠勝から、酒井家が藩主として庄内藩を統治してきた。以後、江戸時代が終わり、廃藩置県が実施されるまでの約250年間、家臣団と領民と酒井家は堅い絆と信頼関係で結ばれていた。
初代は徳川家康の親族に
酒井家初代の酒井忠次は、元を辿っていくと、徳川家康の親族にあたります。忠次は家康の父である松平広忠に仕え、家康の叔母にあたる碓井姫と結婚していたため、家康にとって外戚の叔父であり、家康が松平元康を名乗っていた幼少時代から家臣として苦楽を共にし、三方ヶ原の戦いや長篠の戦いで手柄を上げてきました。そして酒井家が庄内入りしたのは元和8(1622)年、忠次の孫である第3代の忠勝の時代のことです
そして、庄内藩のある鶴岡市は全国有数稲作地帯の庄内平野南部に位置し、西側は日本海に面し、白山原産のだだちゃ豆・庄内柿・民田茄子などが生産。藤島地区・櫛引地区では稲作が盛で、野菜や果樹栽培なども盛に生産されている。温海地区では温海かぶが特産品として知られ、あつみ温泉も古くから有名。羽黒地区では出羽三山観光が盛んで、映画ロケが行われるなど観光産業も盛んになっています。
▼庄内柿の収穫まえ 鶴岡市松ヶ岡